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2016年8月28日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 8章36~47節
「言葉をどこから聞くのか」
イエスが問題として提示しているのは、自分たちが持っているもの、ここでは信仰の発想の根源を指し示していますが、それが本当に自分たちユダヤ人が自覚しているものであるのかということです。
人の発想は現代においては、その個人の個性に、経験したこと、学んだことを積み上げていき、個人の人格というものが形成されるとされます。しかし、イエスの生きた時代は家父長制の時代であり、家の家長よりものを教わり、そして家の発想というものが叩き込まれた時代でもありました。
自らを神の民として自覚していたユダヤ人たちは自分たちの信仰の根源をアブラハムより受け継ぎ続けたものであると自負していました。そのことは、本日読まれた聖書箇所においても顕著であり、自分たちの父はアブラハムであると発言しています。
しかし、イエスはその思い込んでいる部分をむき出しにして露わにします。聖書を読む会でアブラハム物語を読んだ時にも確認しましたが、アブラハムの信仰の姿というものは非常に素朴であり、人としての思いが先行する場面はありますが、それでも神と対話する時、そこにはほぼ無条件的で絶対的な信頼が伴っていました。
語られた言葉に対して、アブラハムは頭の中で打算的なことは考えず、信仰によって歩み出したのです。
イエスがユダヤの人々に対してはっきりと言ったのは、それが信仰の原点であるのならば、なぜ、イエスが語る言葉を頭の中で打算的なものを考え、それに心を傾けて聞けないのかというものです。
アブラハムは言葉を聞き、約束がありますが、絶対に確約されて実現する未来であるとは未確定の中でそれを信じて歩み出します。普通に損得勘定で動くのならば無視もできたものをアブラハムは信じたのです。
そして、イエスの時代に生きた人々は、自らの歩みをアブラハムから続くものであると自負しますが、その実態は自らの頭の中で打算的な発想により実利を得る考えをしていました。イエスが求めているのは、心を開いて言葉を聞き入れるという単純なことではないのでしょうか。
2016年8月14日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 8章3~11節
[どうお裁きになるつもりですか」
今日読まれた聖書箇所は、括弧付きで記されている箇所です。聖書で括弧付きによる表現をする場合は、翻訳の元となった底本に記されていないから異本使用して翻訳した場合や、後代の加筆が疑われている箇所などに使用されます。今日の箇所も初期の重要な写本には記載されておらず、むしろ後代に広まっていった箇所であると言われています。
イエスの元に、一人の女性が連行されてきます。その女性は、引き連れてきた人々の言うところの姦通の現場にいたということです。姦通の罪は本来の規定ならば、女性だけではなく、男性にも適用されるものでありますが、ここに引き連れられてきたのは女性だけと言うことになります。ここに、引き連れてきた人々が本気で律法の規定に準じて人を裁こうとはしていない姿が描かれます。ここには、イエスがどのような発言をするのか、言葉尻を捉えようと画策している姿が見て取れます。そして、それはそのようにして神の与えた律法というものに依って立つという姿はなく、人の思いを前提にして立ってしまっているという姿が鮮明に記されているのです。
イエスに「どうお裁きになられますか」と問う人々の姿を想像すると、そこには薄ら笑いを浮かべた人々の姿が浮かんできます。人々にとってはしてやったりというものでしょう。けれども、その表情はしだいに深刻な表情になっていったことでしょう。イエスに対しての問いかけは、当人たちの思惑から大きく外れて、当人たち自身が問われる結果となりました。
罪を犯したものだけがという問いかけは、一人一人が大なり小なり罪を犯して生きていることを暴き出します。
このようにして、人々は去り、イエスがその人を罪に定めないということでこの話は終わりを迎えます。けれども、この箇所において、これが本当にイエスにさかのぼる話であるとしようとするならば、それは無理があるというよりありません。この話は終わりまでこの女性を罪人であるという前提で記しています。どうお裁きになるつもりか、この問いかけはこれを描いた人にも、読んでいる人にも、すべての人に問われると同時に、判断を誤ってはならないものとして語りかけてきます。
2016年8月7日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 7章40~52節
「世は理を置き去りにする」
今日読まれた聖書箇所は、イエスが何かを行ったというものではなく、公に活動をされているイエスという人を周囲の人々がどう捉えていたのかが語られています。特にイエスという人をどう評価するのかという点で人々の間で対立が起こったと語られます。特にイエスを捕らえようと考えた人たちの中心にはユダヤ人たちの指導者層がいたことが報告されています。
イエスと出会わなかった指導者層たちは、イエスの活動を頑なに認めませんでした。ファリサイ派の人々はイエスと出会った下役たちに対して「惑わされたのか」とまた、イエスの言葉を信じる人たちに対しては「呪われている」という呪いの言葉を口にします。
人々の間にある対立はひとえにイエスという人を信じてもいいのかという混乱から起こる対立ではありますが、指導者層たちが問題にしているのは、イエスという人を信じてしまえばそれまで自分たちが保っていたありとあらゆるものに対しての決別が待っており、もちろんその中には既得権益も含まれていると言うことです。だからこそ、イエスという存在を決して認めようとしないどころかイエスを完全に否定しようとします。
それは、議員であり、イエスと直接出会ったことのあるニコデモが、イエスを議会に招集して、その是非を問おうではないかという発言に対する議会の反応を見ても明らかです。ニコデモは正当な手続きを踏んで、イエスと他の議員との直接の対話の機会を設けようとしましたが、それを頭より他の議員たちは拒否します。イエスという存在そのものを議員たちは拒絶するのです。使徒言行録においても、ステファノが自らの命を投げ捨ててまでもイエスを証した時、ステファノを石打にした人たちは耳をふさぎ、それを聞かないようにしたと伝えられています。
両者に存在しているのは、自分にとって都合の悪いものに対しては絶対に耳を貸さないという姿です。そして、自分にとって都合のいい世界のみを構築し続けることのみに邁進してしまうのです。イエスは人々が忘れた理を改めて人々に解き明かしていました。けれども、それと向き合うことなく、世は自ら理を無視して進んでしまう傲慢さが存在してしまうのです。
2016年7月31日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 7章1~17節
「何を見つめているのか」
エルサレムへとイエスが上ることを共観福音書はエルサレム入城の物語として劇的に描きますが、ヨハネによる福音書ではエルサレム入城の箇所と共に複数回エルサレムに上っていることが伝えられています。特に、本日読まれた7章はエルサレム入城を除けば、エルサレムに上ったとされる報告の最後に当たる箇所です。
ここから、最後の晩餐に至るまで、イエスはガリラヤ地方を離れ、エルサレム周辺を中心とした活動に入ります。けれどもそれはイエスにとって、自らに遣わされた使命を遂げる時、イエスの時を待つ時でありました。
イエスの時とは、十字架にかかり、復活するという出来事を通して神の究極的な愛の実現を世に示されることでした。しかしながら、そのようにして備えられている出来事とは裏腹に、イエスを試みる者たちとしてイエスの兄弟たちが登場します。兄弟たちは、イエスに自らの業をもっと大々的に人々に見せてやればいいではないかとイエスに語るのです。そして、そう語る思惑として、イエスの語る、神と共にあるということについて信じていたのではなく、人の思いとしてイエスを利用した承認欲求が込められていました。
ここには、物語内の時間、書き手の時間、読み手の時間が非常に交錯されたものとして今の私たちにメッセージを発しています。特に、書き手にとってはこれは問題にしなければならなかったものとして描かれているように見えます。書き手がヨハネによる福音書を著した時は遅くても後80年周辺であり、イエスの弟ヤコブがエルサレム教会においてどのような立場にまで上り詰めたのかを知り得る立場でした。イエスの兄弟ヤコブは後にエルサレム教会において最高指導者としての地位を確立した人でした。使徒言行録などにもどのようにしてそこまで上り詰めたのかを記してはいませんが、それを物語の中にはめ込むことで告発しているのです。
そして、そこにはイエスの指し示した道をどのように扱うかが問われていることにも気づかされます。それを利用することは実にたやすいことでしょう。その道を歩むことは実に困難な道であるでしょう。そして、イエスはその道を歩まれることを望んでいるのではないでしょうか。
2016年7月24日(日)説教要旨
コリントの信徒への手紙Ⅰ
11章23~29節 「主と食卓を囲む」
本日読まれた聖書箇所は、聖餐式の式文にも用いられている箇所です。文章の中でカギ括弧によって表現されていますが、これはパウロが見聞きして伝えられた当時の主の晩餐と呼ばれる食事の席において実際に用いられていた定型文です。そもそも、パウロがこの手紙をコリントの教会へ送った理由としては、コリントの教会に集まるキリスト者たちが、他のキリスト者と出会い、パウロが語る以外のイェスという人の人となり、信仰の持ち方と出会ったことに起因しています。
それにより、パウロ自身が抱える根本的な問題である一つのことが問われました。それが、他の使徒たちと異なり、生前のイエスを知らないという問題です。パウロ自身がキリスト者へとなったのはダマスコへの途上におけるイエス顕現の出来事でした。その後、ダマスコのアナニアとの出会い、エルサレム教会で他のキリスト者たち、使徒たちとの出会いでした。イエスのことを伝承として受けることは可能でしたが、イエスと実際に出会い、イエスの言葉を語り伝える伝道者と、イエスと出会えず、他者の口を通して語られたイエスの言葉を元に語るパウロの間にはやはり大きい隔たりがあります。
だからこそ、パウロが主の晩餐において制定されていた定型文の式文、今日読まれた聖書箇所の始まりには、「わたしがあなた方に伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と強調して描かれているのです。
そして、パウロが同時に取り組んでいる問題が、主の晩餐における人々の行いでした。当時の主の晩餐と呼ばれる、現代の聖餐式においては、実際にそれぞれが食事を持参して、それによって一つの食卓に着き、互いに食事をするという営みが行われていました。けれども、コリントの教会においては、各自が持参した食事は、自分が持ってきたものを自分が食べるというものになっていました。主の晩餐において、それが意味するものは、ただの食事でなく、イエス・キリストが何のために十字架につけられたのかを、そこにどれほどの恵みが与えられたのかを理解し、そこに共に参与できるという感謝を持つということをパウロは主張します。そして、それがパウロの願う一つの群れのり層の姿でもあるのです。
2016年7月17日(日)説教要旨
ローマの信徒への手紙 14章10~23節
「互いを認め合う」
教会には多くの人が集まります。その中には、やはり集まる人の数だけ思いや生活習慣が異なる人もいるのは当たり前のことです。そして、それは今に始まったものではなく、キリスト者が集まり、教会を形成していった初期キリスト教の時代でも当たり前のように存在するものでした。特に、初期キリスト教の時代においては、ユダヤ教からの改宗者、異邦人からの改宗者が混在し、今の私たちのように旧約聖書、新約聖書と呼ばれる書物はなく、旧約聖書を用いて、そこからイエスを語り、イエスを語ることによって神を語る時代でした。伝道者たちもイエスから伝えられた福音を述べ伝えましたが、その働きも各々によって異なるものでした。
たとえば、パウロがしばしば論敵として手紙で駁論しているのは、ユダヤ教の理念をそのままキリスト教に適応しようとする伝道者であったり、ユダヤ教であったりしました。知っての通り、ユダヤ教には厳しい食物規定がありましたから、そのような人々からすれば異邦人改宗者の食生活は到底認められないものであり、改めなければならないものであるとされたのです。
パウロ自身、根っこの部分が同じ問題を目撃しており、それに対して別の箇所にて指摘していますが、そもそもキリスト者が与えられたと理解していたのは、そのような宗教的不自由さからの解放でありました。
縛られ、それによって神とつながるのではなく、心よりの神へ信仰を置ける環境というものは、自分たちが自由の身であり、その上で神に信仰を置くという決断こそが真の意味で神とつながりを持つ、関わりを持つことになるのだとパウロは語るのです。
だからこそ、一人一人が異なる思いを持つ中でも、特定の宗教的規則に縛られてそれによって神を信仰するという形でしか神と関われないのではないと強く語るのです。これは、互いに認め合うことが何よりも求められる事柄です。自らの持つ確信と他者の持つ確信はどちらかが勝っていて、どちらかが劣っているものではありません。両者ともに並び立つ存在であり、どちらかを否定するものでもありません。むしろ、そのようにして自由の中で信仰の道を備えてくださる神に感謝です。
2016年7月10日(日)説教要旨
使徒言行録 27章33~44節
「不安の中だからこそ」
パウロ達一行が乗っていた船が難破をしてしまったという報告が、使徒言行録の中ではされています。パウロが船に乗っていた理由は、パウロ自身がローマに赴き、裁判にかけられるための道中でした。ローマにとってはパウロは被告であり、パウロはそれを弁明するための旅路でした。
さて、学校の授業などで新学期にアイスブレイクと呼ばれる自分とはどのような考えを持っているのかを共有する時によく用いられる心理クイズがあります。出題は、「あなたは動物たちと船に乗っていました。ヒツジ、馬、猿、ライオン、牛の5種類の動物です。みんなで協力しあって楽しく旅をしていましたが、途中船が沈みそうになった時、1匹ずつ海に投げ出すことに。さて、どの動物から順に手放しますか?」というものです。
羊が伴侶、馬が仕事、サルは子ども、ライオンは親、牛はご飯を指し示しますが、この問題は大前提として、犠牲を伴うものです。ヨナ書にも似たように海が荒らしに飲まれてしまった時に、誰かが神に対して罪を追っているということを船の上でくじ引きする場面がありました。その後、ヨナ自身が海に投げ込まれますが、ここでも犠牲が伴う判断がされています。
誰かを犠牲にしなければ自らの命が危うい、極限状況下の物語ですが、まさにパウロもそれと同じ場面に直面しています。
そして、そのような状況下において船乗りたちは自分たちだけならば生き残れるとしてその船から脱出しようとします。これも犠牲を伴った判断でしたが、パウロはそのような中にあって、皆が共にいれば皆助かるという判断をしました。極限下においてはありえない判断をしたといえます。そして、そのような中で食事をパウロは勧めます。14日間もの間何も食べていなかった中で食べ物を食べる、この行為は命をつなぐこと、生きる希望を与えるものだったといえるかもしれません。そして、パウロはそこで食事についた人たちに、自分たちは助かるのだと語りました。これは、パウロにとってローマに向かうといういわば人生において最も波風が荒い時さえ、神が備えてくださった伝道の道なのだという確信があったからです。神が常にともにあってくれる。それこそがパウロが人々に与えた希望の光だったのです。
2016年7月3日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 5章19~36節
「授けられたもの、その証」
安息日における癒しの業は当時のユダヤ人たちにとっては律法を破っているという判断でした。けれども、イエスは聖書の中で度々、安息日であっても病人を癒す奇跡を行います。今回の聖書箇所で語られているイエスの説教も、ベトザタの池において病人を癒し、それを知ったユダヤ人たちからの敵意を向けられた時に語った言葉であるとされています。
ここで語られている言葉は裁きについて、死と復活について、イエスがどのような権威があるのかということについて語られており、非常に複雑に感じる箇所です。特に理解が困難になるのは、裁きについて、死と復活についての時系列が混乱しているように感じるからです。今の話であるのか、将来の話であるのか、こんがらがってしまうのですが、ここにはその両者が描かれています。そして、裁きの問題と死と復活の問題の二つは非常に密接につながっていることがこの説教の中で語られていることに気が付かされます。今日読まれた箇所には、3回「はっきり言っておく」という言葉が使われています。この言葉は、直訳すれば「アーメン、アーメン、汝らに告げる」という意味の言葉であり、イエスが特に強調したい物事を語る時の最初によくつけられる言葉です。これに注目するとき、まずイエスは自らの行う業が神自身が行われる業であることを語り、イエスの行う業が神から遣わされたものであるということをはっきりと明示します。そして、その中で裁きと、死と復活というものに対してもイエスは神より全権を委ねられていることを明らかにします。さらにいえば、裁きも死からの復活も、いつか来る最後の審判の時に委ねられているのではなく、今がまさにその時であるのだとイエスは語っているのです。死んだ者がイエスの言葉を聞き、生きるという表現は、何も現在墓に葬られているものに対して語っているだけではなく、この言葉を聞いた今、それまで死んだようなものである心から、新たな希望を持って、改めて生きることが求められていることに気が付きます。
イエス自身が求めているのは、いわゆる狭い世界の中で死んだように生きるのではなく、目を開き、この広い世界で希望をもって生きるということではないでしょうか
2016年6月26日(日)説教要旨
広島南部教会 濱田裕三牧師
マタイによる福音書 6章19~21節 「天に宝を積む」
イエスが語る、宝(富)とは、一握りのものや 一人の行いを越えて、みんなで分かち合えるもの。みんなで持つことが可能なものと考えたい。では宝(富)を積む「天」とはどこか。それは神の思い、神の意思が豊かに働くところ。「天に宝(富)を蓄える」=「神の思いが働く場で物や行いをみんなで分かち合う」言い換えれば、「みんなで物や行いを分かち合う場が神の思いが働く場」つまり天だ。実は、聖書が記す「天・神の国」は彼方にあるのではなく、私たちの身近なところにある。そして、天・神の国はいつの日かおとづれるのではなく、今実現される。
天に宝を蓄える(富を積む)ということは、一人でがんばって昇ることではなく、みんなで安心できるところに降りていく作業だ。自分だけに大切なものではなく、みんなにとって大切なものを探し求める作業だ。それはみんなで弱さを出し合い、受け入れあっていくということなのだ。
神は一人一人を「極めて良い存在」素晴らしい存在としてお造りになった。神に似せて人を造られた神は、「弱さ」という豊かさを与えてくれた。これは特別な人に与えられるものではなく、標準装備だ。誰にも与えられている。みんなが持っているから、それを奪い合ったり盗んだりすることもない。
石油など地下資源は、どんどん枯渇していく。しかし、弱さや苦労は枯渇することはない。弱さはいつも新鮮に自分の中にあるから、隠したり、中に閉じ込めない限り、腐ったり錆びたりしない。
私たちは、身近なところにある弱さという宝、弱さという富にこころに向けたい。キリストの力がもっとも働くその弱さを元手に、弱さを絆にしてみんなで信じ合う豊かな場を作っていきたいと願う。
2016年6月19日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 4章27~42節
「世の救い主を見た」
イエスと出会ったサマリアの女性は、イエスの語った礼拝の在るべき場所を聞きました。それは、、ユダヤ人の常識でなく、サマリア人の常識でもない、真に神に迫る礼拝の在り方でした。その言葉を聞いたサマリ人の女性は、預言者の言葉ではなく、力あるものとしての力を感じ取ります。そのため、サマリア人の女性は、イエスをキリスト、メシア、神によって油を注がれた人、人々にとっての新たな王となりうる力を持つ人だと感じました。
だから、サマリア人の女性は自分の感じたものを他のサマリア人と共有するために、イエスを紹介します。まず、サマリア人たちは女性の紹介によってイエスを信じましたが、イエスの言葉を聞く中で、イエスの言葉によって信じるものとなっていきました。
この時、サマリア人たちはイエスを「世の救い主」として認識します。この、「世の救い主」という言葉は、ヨハネによる福音書の中において、この個所のみに使用される称号です。ユダヤ人たちにとってのメシアとして期待される救世主は、自分たちユダヤの民を救い出す存在でした。けれども、サマリア人は、イエスという方が特定の者のみを救い出すような存在ではなく、まさに人々が生きているこの世界において、すべての人を救い出される存在であると感じたのです。
そして、それをサマリア人たちが自分の肌を通して実感したのは、何より「二日間そこに滞在された」というイエスのつながりがあったからこそです。
二日間という短い期間ではありますが、それでも、ユダヤ人とサマリア人という間柄であるならば、それは決して短い時間ではありません。その時間をイエスはサマリア人のために共にしました。そして、メシアであるかもしれないイエスから、全ての人の救い主であるイエスへと思いが変えられるのです。サマリア人の人たちのこの信仰告白は、イエスによってユダヤ人たちや弟子たちに明らかにされる前にすでに表現されているものでした。すでに、イエスの視座は十字架へと向かっており、そして、それこそが神が新たにすべての人々を愛しておられるという思いの表現でもあったのです。
2016年5月29日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 3章1~15節
「新たにされるということ」
ヨハネによる福音書において、信じるものと信じないもの、知ることと知らないということは、非常に大切なテーマとして存在します。けれども、多くの場合は群衆、ユダヤの支配者層たちはイエスを拒絶し、知ること、信じることを放棄しました。けれども、その中で異彩を放つのが本日読まれた聖書箇所に登場するニコデモというユダヤ人議員です。
このニコデモはヨハネによる福音書にあと2回登場する人物であり、場面内においてあるテーマにおいて重要な役割を担う人物でもあります。それは、登場する度にヨハネによる福音書において描かれていなかった、イエスが明らかにされたことについて、それを受け入れた人たちの象徴として描かれているような気が読むごとに強くなってきます。
ニコデモが次に登場するのは、サンヘドリンというユダヤ人の意思決定最高機関において、イエスを拒絶する議員たちを説得しようとする姿(ヨハネによる福音書7章)と、十字架にかけられたイエスを降ろし、墓に埋葬することを手伝った人物(ヨハネによる福音書19章)でもあります。
それらは、イエスを拒絶する側であれば決して行うことのないものでした。けれども、ニコデモがそのように動くことができたのは、このイエスとの出会いであったことは疑いようがありません。夜、人の目を忍んでイエスに会いに来たニコデモは、イエスこそが神のもとから来た方であるということを告白します。しかし、その告白に対し、イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはない」と語りかけました。イエスの唐突な語り掛けに対して、ニコデモの反応も違和感を覚えるものでした。その違和感の差を埋めるのは、おそらくニコデモ自身も無意識のうちに理解しながらも、それをはっきりと理解しないように避けようとしたものです。新たにされるということは、いままでとは異なる判断基準に基づいた生活の始まりです。しかしながら、ニコデモは前述したとおり、ユダヤ人の意思決定機関に属する存在であり、夜に人の目を忍ばずにはいられない立場の人間でした。だからこそ、それの理解を拒んだ。けれども、そのニコデモもまた、イエスによって新たにされたからこそ、後に現れるのです。
2016年5月8日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 16章1~11節
「後に来るもの」
ヨハネによる福音書においてたびたびイエスによって言及される存在として、弁護者と呼ばれる存在がいます。弁護者という言葉の使い方は裁判用語として弁護するものとしてギリシャ語でも用いられる場合がありますが、それと同時に、助けを求めて呼びかけられる人、助けてくれる人、助け手として使われる言葉でもあります。そして、その弁護者は16章において、世に対して証言する力を持ち得ることが語られました。世に対し証言し、明らかにすることは多くの場合、賛同するもの、反感を抱くものに分かたれます。
実際にイエスの活動を見回すと、多くの人を救うと同時に、世の支配者層に対しての誤りを露わにするものでした。だからこそイエスという明らかにする者の存在は律法学者、司祭たちにとって脅威であり、排除すべき存在となったのです。
しかしながら、それでもイエスが活動を続けたのは、世が正しくなるための行いでした。この世という存在が誤った道を歩んでいる、そのことに気付かせ、悔い改める道をイエスは示そうとしていたのです。
それでは、いったい何が誤っていたのか、それこそがイエスの後に来るものとして弁護者が改めて明らかにするとされていますが、明らかにされるものとして、罪、義、裁き、についてとイエスは語ります。
いったい何が誤っているのか。それを思う時、そこにあるのは人の思い、特に他者を貶めてまでも自分のみが上り詰めて強者となり、勝者となろうとする世界であり、人中心によって構成される世界であると気付かされます。
イエスが徹底して語ったのは、神の愛を実現する世界、神の思いに沿った生き方であります。そこは人中心ではなく、神を中心とした世界であります。
けれども、それはイエス一人だけが証言するだけでは正せないほどのものともなってしまっていました。だからこそ、弁護者が遣わされ、その力を受け、一人一人が世を明らかにする証言をする力が与えられるのです。ここには強い思いを持った覚悟が必要とされます。なんとなしに受け止められるものではなく、自分たちもまた今一度聖書の言葉を振り返り、イエスの生き様を振り返り、自らの歩みを思い改める時であるのではないでしょうか。
2016年6月12日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 4章5~26節
「新たな礼拝の時」
本日読まれた聖書箇所において、イエスとサマリア人の女性との会話が描かれています。そもそも、サマリア人とユダヤ人の間には大きな確執が存在していましたし、本日の個所においてもそれが問題として存在しています。歴史的に見ると、サマリア人もユダヤ人も共にヤハウェを信じる者たちでありましたが、バビロン捕囚、また、その後のペルシャによる統治の時代、進行する聖所の問題などで分かたれた民でありました。
サマリア人とユダヤ人の意識の差ははっきりとしていて、ユダヤ人にとってのサマリア人とは、常に汚れた存在であり、関わり合いになることすらはばかられるべき存在であるという意識がありました。サマリア人としても、そのように振る舞うユダヤ人を快く思うはずがありません。
そのように、両者がほぼ反目しあっている歴史的、信仰的な物事がイエスとサマリア人の女性の会話によって見事に解消しているのがここに記されている物語です。始まりは水を飲ませてほしいというイエスの願いから始まりました。ですが、前述していた通り、サマリア人とユダヤ人の間には関わり合いにならないという不文律がありました。しかし、イエスの言葉によって、その不文律は打ち破られます。
そして、次に命の水へと問題が移ります。しかしながら、ここの持つ意味合いは、本当にそんなものがあるのならばくださいよ、という意味合いとして一種の皮肉として語られます。あくまで、サマリア人の女性からしてみれば、妙なことを言い出す人がいたものだというところですが、次にイエスがサマリア人の女性の家族構成を言い当てたとき、この時に大きな返還点を迎えます。サマリア人の女性はイエスの言葉を受け、この人は預言者だと感じ、生活の中において重要であり、サマリア人とユダヤ人の間に横たわるもう一つの重大な問題を提示します。それこそが、礼拝をするべき場所という問題です。礼拝をするべき場所をユダヤ人はエルサレムだと言い、サマリア人はゲリジム山にあると反目しあっていました。しかし、イエスはそのどちらでもなく、場所ではなく「このように礼拝するものを求めている」と人の姿勢を語られました。それは、言葉を聞き、聞いたものを求めるものでした。
2016年5月22日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 14章8~17節
「それでも求めてしまう」
ヨハネによる福音書でたびたび繰り返されるテーマに、『「実際に徴を私たちの前にお示しください」とイエスに求める群衆』というものがあります。他の福音書内にも徴を求める人に言及する箇所はありますが、特にヨハネによる福音書においては、それが顕著に見られます。確かに、神自らが顕現することに勝る徴としての出来事はありません。ですが、イエスはそのような要求を認めたことはありませんでした。
本日の聖書個所においても、弟子のフィリポがイエスに対して同様なテーマを口にしますが、それによってイエスは自らの業も言葉も、イエスの内にいる神自身によって成されていることなのだと明らかにします。14章の初めにイエスは、「神を信じなさい」とまず弟子たちに語りました。神を信じるというために、神自身がどのような方であるのかをイエスは様々な譬えを用いて人々に語っていました。ここには神その方自身が人を愛され、そして共にいてくださるということをまず信じなさいと語っている気がしてきます。
常にともにいてくださる方が私たちのすぐ側にいてくださるのだという自覚こそが信じるという道につながるのではないでしょうか。信じるということは、決して受け身で行えるものではなく、自らが主体的に向かわなければ行えないものです。信仰を言い表す、ということを思うと、教会として思い浮かぶのは洗礼が思い浮かびます。洗礼も幼児洗礼を受けたなら、自らで判断できるようになった時、堅信礼を行いますし、そうでなくとも、自らの意志で洗礼を授かる人もいます。どちらも、自らが主体的に信仰を持つということを表すものでもあります。そこには決して受け身では表せないものです。弟子のフィリポがイエスに付き従う中であっても「御父をお示しください」という言葉は、イエスとともに歩み、それでも求めてしまうものでした。それは、人の弱さでもありますし、信仰のもろさでもあります。ですが、その弱さをイエスは罰することなく、乗り越えられるものとして提示します。イエスが求めるのは「信じなさい」という言葉で一貫しています。常に神のこととイエスのことを思い、そしてその一つ一つのことば、歩みを覚え、倣うことが求められているのではないでしょうか。
2016年6月5日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 3章22~36節
「人々が求めたもの」
ヨハネの弟子たちとユダヤ人との間で論争が起こったことから今日の聖書個所は始まります。論争の火種となったのは、清めのこと、特に26節以下で語られている洗礼についての論争でした。それがどのような論争であったのかをヨハネによる福音書は明示してはいませんが、問題としているものが、「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています、みんながあの人の方へ行っています」という、イエスに属する集団の洗礼の正統性について問うものであった可能性が高いです。そして、この類の論争はおそらくはイエスの昇天の後、使徒言行録で描かれている弟子たちの活動した時においても問題となったものでした。使徒言行録においても度々弟子たちの手によって水による洗礼が授けられている箇所がありますし、パウロも宣教活動の中において、洗礼を授けていました。ヨハネの弟子たちとユダヤ人たちの間で起こった論争は、いわば、後から来た者によって自分たちが行ってきた業を盗まれたという糾弾でした。しかし、弟子たちの糾弾に対してヨハネは、それこそが喜びであると説きました。しかし、後の4章にて明らかにされるのが、洗礼を授けていたのはイエス自身ではなく、イエスの弟子たちによって行われていたということでした。ここに二つの弟子集団という対比が現れます。そして、この2つの弟子集団は、それぞれが自分の思いによって行動し、必要とすべきである、神を中心とした生き方ではないものが明らかにされます。
ヨハネの弟子集団が問題としていたのは、自分たちの元から今まで集まっていた人たちが去って行ってしまうということに関する危機感、いうならば組織運営の価値観でヨハネに語っていました。また、イエスの弟子たちが行っていた洗礼は、イエスを飛び越えた弟子たちによってなされていた業であって、弟子たちの個人的な思いによって行われています。どちらも師である者の言葉によって神と出会えたはずが、神によって生きるのではなく、神の威光を利用する形を求めてしまう姿が見えます。神との出会いを求めること、それこそが人々が最初に求めたもののはずでした。それを決して離さない軸として、神の道を求めるものでありたいと願います。
2016年5月1日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 16章25~33節
「今、ようやく」
ヨハネによる福音書において、多くの紙面を用いて語られているのが、イエスが弟子たちに向けて語られた最後の晩餐とその場に置いて語られる告別説教と呼ばれるものです。ここでは弟子たちに向けて、身内の者のみに語られた秘儀とされるものが語られています。けれども、ここで語られる言葉は読者である私たちも読み、そして知ることができる、いわば公然の秘密のような形としてわたしたちも知ることができます。
無論、福音書記者ないし編集者もこれを自分たちの秘儀であり決して外に出してはならないものとしては扱わず、むしろ共に共有できる形としての意図があったのは言うまでもありません。そして、そのように意図して記されているならば、ここでイエスの言う「あなた」は誰に当たるのかが焦点に当たります。たしかにこの場所の描写として「あなた」という言葉が用いられているから、「あなた」は弟子たちを指し示す言葉として受け取ることができます。ですが、それと同時に、読者たちに向かっても「あなた」と呼び掛けている姿だとも受け止めることができます。弟子たちはイエスを失い、悲しみの底に沈みます。けれども、わたしたちもまた同じように生きるという現実の中で動けずに途方に暮れる時があります。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」というイエスの言葉は弟子たちに向けた言葉であると同時に、わたしたちにもまた投げかけられている言葉なのだと気が付かされます。そしてイエスは次の言葉を投げかけてわたしたちに塾校の時を与えてくれます。それが、「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」という言葉です。心乱される時ほど、人はその本性を露わにします。イエスは心乱される時に人は神から離れ去ってしまうのだと、神の御許に居続けることができるのかと問いかけてきているのです。弟子たちはイエスの言葉を聞き、今、ようやくイエスを信じると語りました。ですが、それでは遅すぎるのです。そうではなく、イエスの生き方は苦難が待ち受けるものではあるかもしれませんが、どのような時においてもイエスの生き様に倣う歩みを求められているのではないでしょうか。
2016年5月15日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 14章15~27節
「わたしたちは、知っている」
本日の聖書個所において、最初にイエスが確信を持って提示しているのは、「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」というものでした。これは、イエスがこの最後の晩餐において新たに与えられた掟である、「互いに愛し合いなさい」という言葉からきています。互いに愛し合うということは、一方的なものではなく、相互に理解し合い、互いを重んずるものでもあります。そして、互いに愛し合うということにおいて、ではどうすることが愛に連なるものであるのかというと、それはイエスがすでに公の場にて行われていた一つ一つの場面からうかがうことができます。イエスの愛は相手と分かり合うこと、悩みや痛みを共有すること、その中にあって相手を信頼することでした。特に弟子たちに対してイエスはたびたび信頼しきることを求めます。信頼を寄せ、その中に自らを委ねることが求められます。
この愛を実現しようとするならば、多くの場面で心くじけることがあるでしょうし、理解されないときもあるでしょうし、時には裏切られることもあるでしょう。けれども、それでもなお、相手を信じることが求められる時、そこには人の力ではどうしようもない大きな壁に隔てられてしまいます。人間は自分が思っているよりも弱い存在です。多くの挫折を体験するとき、多くの人を去らせてしまうほどの躓きと諦観をもたらせてしまいます。だから、イエスは聖霊を遣わしてくれるように父に願うと弟子たちに語ります。ヨハネによる福音書はその聖霊を弁護者と呼びます。弁護者と呼ばれるとき、それは共に立ってくれる存在、同労者として共に歩んでくれる存在が常にわたしたちと共にいてくれるのだとわたしたちにイエスが語ってくれているのだと気が付かされます。互いに愛し合うという環を作るとき、その場に、その時に、弁護者たる聖霊はわたしたちとともにいてくださいます。そして、それは“誰か”たち、ごく限られたグループのみが持ち得るものではなく、むしろ、教えられ、明らかにされ、命じられた掟である、「互いに愛し合いなさい」というところから、互いに愛し合う環を拡げてゆきなさいという掟であると知らされます。そして、それを実現するために、私たちのもとにも弁護者たる聖霊が送られるることを覚え、感謝をもって歩みましょう。
2016年4月17日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 21章15~25節
「三度問われるその姿」
ヨハネによる福音書は他の福音書とは異なり、弟子たちと復活後のイエスとの会話が多くみられます。ある時は救い主として平和を告げ知らせる存在として、ある時は日常の一コマのように寄り添う人として。そして、今日の聖書個所はヨハネによる福音書に記されている最後の記事となります。
弟子たちと食事を共にしたイエスは、食事の日に三度ペトロに対して質問をします、それは、「わたしを愛しているか」という問いでした。ペトロはこの同じ問いに対して、最後には悲しくなりながらも、その問いに対してまじめに答えました。ペトロにはこの質問の真意が見えずに、なぜイエスが同じ質問を三度も繰り返すのかがわかりませんでした。
ですが、3度も同じことを問われる、ということをペトロ自身すでに体験していることです。イエスが裁判につけられるとき、そばについていようとしたペトロに対して周囲の人々が、「お前はあの人の弟子ではないか」と聞いていた箇所が思い起こされます。ヨハネによる福音書におけるペトロの否定に関する記事はイエスのことを知らないと否定して打ち消しているにすぎませんが、おそらくはヨハネによる福音書の著者は他の福音書も知りえており、マルコ、マタイに書かれている呪いの言葉さえ口にしながら知らないと誓ったということが頭に残っていたのだろうと思います。そして、そのように呪いの言葉さえも口にしてしまったペトロにイエスは「愛しているか」という問いを発するのです。イエスを否定したその口から愛しているという言葉を引き出させるわけですから、ある意味では非常に厳しい質問かもしれません。
けれども、その問いに対してペトロが返答するたびにイエスは「私の羊を飼いなさい」という言葉を発します。羊はイエスに従う弟子を表し、それを世話する役をペトロに託しているのです。であるとすれば、この箇所でイエスがなぜ三度ペトロに対して同じ質問を繰り返していたのかというと、一つ一つの質問を通して、イエスはペトロの罪を許しているということが分かります。そして、罪を許すと同時に、新たにされて次の道を歩み始めることを促されているということにも気が付かされます。人が犯してしまう過ちを過ちのままで放置するのではなく、そこからの再出発を促しているのです。
2016年3月27日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 20章19~31節
「平穏と共に喜びがある」
ヨハネによる福音書におけるイエスの十字架刑の記述は他の福音書と異なり、徹底的にこの世に生きた人間として、人としての死が描かれます。他の福音書が描くイエスの最後は神の子としての劇的な終わりが記されていますが、ヨハネによる福音書はそのような劇的な描き方をせず淡々と十字架の出来事を記していました。それは、ヨハネによる福音書が十字架という出来事自体が神の劇的な歩みの中であり、その後に描かれた復活という出来事にこそ神の計画が明かされる最も重要な場面として描かれるためでした。
イエスの復活という出来事は、絶望の淵に落ちた人々を慰める出来事であり、これ以上先の進むべき道を見失っていた人々に再び道を照らしだすものでした。弟子たちが復活したイエスと出会ったのも、まさにそのようにして自分たちの歩むべきこれからが見えなく、どのように歩んでいいのかもわからないという恐れの中でした。恐れという感情はそれをもたらす原因がのぞかれない限り恐れであり、さらにその恐れが新たな恐れを生み出していくという悪循環をもたらすものとして存在します。まさに、弟子たちは恐れに恐れを重ねる状態だったといってもいいでしょう。
そこに現れたイエスが「あなたに平和があるように」と重ねて語ったのは、まさに弟子たちの恐れの原因を主自身が解決してくださることの宣言でもあります。復活したイエスとの再会はそれまで恐怖に駆られていた弟子たちを勇気づけるものとして響きます。そして、イエスは弟子たちを新たな道を歩む命令を出されます。イエスの新たな派遣の命令は立ち止まるのではなく、神の道を歩み続けることを命じられました。
それは、今までの弟子たちの歩み方とは異なる歩みです。なぜなら、いままではイエスの言葉を聞き、イエスと共に歩み、目の前にいるイエスと共に歩み続けるのが弟子たちの歩みでした。けれども、イエスによって弟子たちは自らの足で神の道を歩み、神を証しする歩みへと連れ出されます。そこはイエスを失った弟子たちには到底歩めない道であったでしょう。しかし、イエスと再会した弟子たちはその道を歩み始めます。絶望の淵より出て、喜びを知り、神の道を歩み始める弟子たちに習いたいものであります。
2016年4月24日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 15章18~27節
「憎むという感情」
人が他者に向ける感情を表現する言葉は非常に多種多様にあります。喜ぶ、好き、愛する、ポジティブな好意として表現できる言葉もあれば、それらとは真逆の言葉も存在します。そして、そのように用いられるネガティブな言葉というものは決して人を愉快な気分にさせることはない感情です。
イエスが弟子たちに向かって語られたのはそのように、決して愉快になれる言葉ではなく、むしろ不安になるような言葉の投げかけ方でした。なぜ、イエスがそのような言葉を弟子たちに向かって語ったのか。
ここには新約聖書に収められている手紙の中からも伺える当時のキリスト者たちの現状があるからこそ記された箇所なのではないかと想像することは容易にできます。そのような状況にある時、人は憎しみという感情から逃れることはできません。憎しみという感情からは新たな憎しみという感情しか生み出すことはできません。ですが、新約聖書の中にはその向けられる敵意に対して、さらなる敵意を持って反撃するという主旨の言葉は紡がれず、信仰を持って、毅然と向き合い、忍耐することが勧められています。
けれども、それは決して受け身的な忍耐ではなく、憎しみの連鎖からの脱却を目指す忍耐の時です。初代教父と呼ばれた初期の教会指導者たちは自分たちが一体何者であり、何を中心として据え、それを軸にどう生きているのかを自分たちの言葉をもって語り続けました。それは争いを生まない対話という形で続けられました。自分たちが何者なのか、この問いこそがあらゆる時代においてキリスト者たちが自らに問い続けていたものなのではないかと感じます。わたしたちは、イエス・キリストを救い主として仰ぎ、神に生かされる者として歩みます。そして、わたしたちに語るイエスは、憎しみではなく愛することを教え、自分が何かをしてもらうのではなく、自分のほうから出向いて様々な人々と繋がることの大切さを身をもって示されました。そして、それをイエスのみがなせる業ではなく、わたしたちのもとに使わされる聖霊によって、わたしたちも同じように他者と関わりを持つことができる者へとなされるのです。憎むという感情ではなく愛するという感情へと変えられるのです
2016年4月3日(日)説教要旨
ペトロの手紙Ⅰ 1章3~9節 「実りの喜び」
ペトロの手紙は喜びに満ちた言葉より始まります。その喜びは、信仰の実りより生まれる思いとしてペトロの手紙は描きます。そして、その信仰の喜びを説明するものとして、「新たに生まれる」ということが描かれています。新たに生まれるという言葉は、福音書においてイエス自身も語った言葉であり、わたしたちに求められていたものでもでした。イエスが求めた新たな生は、それまでの自分を悔い改め、そして、神に仕える新たな生き方を選択するものです。しかし、その新たな生き方の選択は言うならば、その生活している環境が持つ常識と思われているものから離れることも意味します。
それを選択するということで、多くの悩みが現れたのは今にしてもよく耳にするものですが、それは今に始まったものではなく、初期キリスト教の時代よりありました。
そして、初期キリスト教の時代は、今の私たちの世界のように世界規模の宗教ではなく、ユダヤ教との区別を外部の人がつけていないような時代であり、得体のしれない宗教として見られていました。キリスト教を支えた初代の教父と呼ばれた人々が最も腐心したことは、そもそもキリスト教とは一体なんであるかということを護教論として証していく作業でした。
そのようにして証を重ねていく源泉は何かということをペトロの手紙は喜びであると言います。そして、この喜びという感情はペトロだけではなく、パウロも抱いていた感情でした。なぜなら、神に仕えるということそのものが喜びであるからです。そして、その喜びは生きた希望へとつながります。希望はその場に留まり続ける停止した状態ではなく、前に進むことへの原動力です。実現していく力です。そして、キリスト教が目指したものは、真に平和を実現するもの、互いに互いを愛し合うことのできる世界でした。これを真のものとするには知るということが必要となります。今、読み進めているヨハネによる福音書は読者に知るための証言を語り、手紙はそれを受け取った人々にそれこそが希望であるのだと語ります。そして私たちはその希望を託されているのです。聖書は語ります、その希望を告げ知らせなさいと。イエスの言葉を覚えて歩みたいと願います。
2016年3月6日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 12章1~8節
「香油の持つ重み」
特定の物事について、物事の持つ価値というものは人それぞれによって異なります。ある作品の評価もそれを評価する人もいれば評価しない人もいます。そのズレが時に人と人とを決定的に分断してしまう時があります。
今日の聖書箇所ではその決定的なズレを生み出したのがマリアとユダの二人です。マリアはイエスの足に香油を塗るという行いをし、イスカリオテのユダはその行いを咎めます。
共観福音書とヨハネによる福音書の二者はこの個所において決定的に異なる描写があります。共観福音書においてはこの個所は、イエスの頭に香油を流す、いわゆるイエスを王として、油注がれた者、メシアであるという行いを通しての告白としての描写です。けれども、ヨハネによる福音書においては、頭にではなく、足を洗う動作として描写されています。
ヨハネによる福音書には足を洗うという印象的な描写がもう一か所記されています。それは、最後の晩餐において、イエスが弟子たちの足を洗うという箇所です。ペテロがイエスによる洗足を遠慮しようとしたとき、イエスはそれでは羽田氏とは何らかかわりがなかったことになるとまで語りました。そこには、共に関わり合う事の必要さが込められていました。
それと同様に、マリアもイエスと関わり合う事を無言の中で選択します。この選択には並々ならぬ決意が感じられます。この香油は300デナリ、当時の1日の生活費が1デナリですから、約一年分の費用が使用されたものです。イエスと関わり合う、ひいては神と関わり合う事をマリアは行動として表明します。ですが、それをイスカリオテのユダは非難します。なぜその分を貧しい人に施さなかったのだと。この発言の根拠がユダの横領故にとヨハネによる福音書は語りますが、それだけではなく、ユダ自身の人としての思いが語られます。このズレをイエスの一つの発言によってこの個所は締めくくられます。それが、私はいつも一緒にいるわけではないという発言です。
この言葉には、関わり合うということの重要さが込められた言葉です。真摯な思いをもって関わり合っていくことの覚悟、それがマリアの持ってきた香油に込められているのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書 2章1~11節
「その時はまだ来ていない」
イエスがこの世に現れ、最初に奇跡の業を示したのはガリラヤのカナと呼ばれる小さな集落での結婚式でした。ガリラヤのカナはナザレの村から北に約14kmほどいったところにある集落だといわれています。古代の歴史家ヨセフスもこの村について一言紹介しており、小さな村だったと書かれています。ヨハネによる福音書は、イエスの活動の始まりが人目につかないような、本当にささやかなところから始まったのだと語ります。
イエスという神の子の活動がこの世に来られ、そして、人々の前で神の言葉を語る、または、奇跡のしるしを行うのは決して多くの人々の前で大々的に行われたのではなく、このようにささやかな祝いの場において行われたのです。イエスのささやかなしるしは水をぶどう酒に変えるというものでした。
そして、そのしるしをおそらく見ていたのはイエスの弟子たちだったのでしょう。世話役の人は花婿がいいぶどう酒を今まで取っておいたものだと思ったようですし、花婿がその誤解を解くシーンもこの場所には描かれていません。弟子たちだけが、その光景を見てイエスを信じたとだけ描かれています。
実は、このイエスの初めてのしるしを見るとき、これからヨハネによる福音書の中で描かれる重要なシーンであります。イエスのもとに集まった弟子たちは、イエスの子のしるしを見て、初めてイエスのことを確信をもって信じるようになるのです。それまではイエスの言葉を聞いて、この方がメシアであると思った弟子、イエスに従おうと思った弟子たちもいましたが、その信じるという思いの中は、「今は従ってみよう」というある意味で現実的な思いだったのではないでしょうか。
この言葉によって信じるのではなく、しるしを見て信じるというテーマは、ヨハネによる福音書の最後まで付きまとってしまうテーマです。確かに百聞は一見に如かずということわざが日本にあるように、行いを見ることのほうが説得力はあります。ですが、しるしのみによって信じるというその信仰はとても脆いものになってしまいます。信仰は、聖書の語る一つ一つの言葉に耳を傾け、祈り、自らの中で芽吹かせ、育てなければならないのです。
2016年2月14日(日)説教要旨
マタイによる福音書 12章1~15節 「祈りの中に」
今日の私たちが日ごろ祈るときに用いるのが主の祈りです。マタイにおいてイエスが人々に主の祈りを教えたのは人々の行いに対する姿勢について言及された時でした。
ここでイエスが問題にするのは、義として行う事がいかに人目に触れ、他者からの評価を得るための手段となり下がってしまっていることです。はっきりと念頭に置かれているのが、施しの際の仰々しいまでのラッパを吹き鳴らす装い、祈る時に会堂や大通りの角に立ち祈るというような、そもそも何を目的にしているのかが不透明になってしまっている姿です。
ここでマタイが整理している施し、祈り、次の断食という概念そのものは、義という概念、神に正しいとされる行いに対して言及しています。そして、それらを人が行う時、その行いそのものを評価するのは神自身であり、人が評価するものではないという思いから人がそれてしまっていることをイエスは明らかにします。
そして、イエスはそれに対し徹底的なまでの物事の相対化を語りました。それは、神の義を実現するのならばそこには他者の目が介在することのない領域まで徹底した隠匿です。ですが、現実においては言葉通り捉えようとするのであればイエスの求める水準に至ることは困難なものです。
ですが、イエスの言葉を一つの拡大解釈だと理解するならば、そこには神が介在する場所がどんなに小さなところであろうとあるのだという示唆に聞こえてきます。それと同時に私たちに対しても神の前に立つ者としての謙虚さをも示唆するのです。
イエスが語る主の祈りの中には「日ごとの糧が今日も与えられますように」と祈る箇所があります。実はこの主の祈り自身がイエスが考え出したオリジナルではなくカデシュの祈りを念頭に祈られた祈りだといわれています。ですが、「日ごとの糧が今日も与えられますように」という言葉はイエスのオリジナルの考え方が込められています。
この思いをさりげなく祈りの中にこめるイエスの思いがどれだけ神を信頼し、人々のことを思ってのことかを胸に収めたいと願います。
ヨハネによる福音書 1章14~18節 「与えられた光」
ヨハネによる福音書の始まりは、共観福音書のような始まりではなく、天地創造の時代より神と共にいた言としてのイエスについての散文より始まります。散文の中で、ヨハネ、モーセ、イエスの三者が登場しますが、ヨハネはイエスについての証を声を張り上げて、人々にイエスの恵みと真理を伝えるための者として語られます。
この恵みという言葉と真理という言葉が同時に並び立つのはヨハネによる福音書の中ではここだけであり、後には真理という言葉がたびたび登場するだけになります。
イエスはピラトの前で「わたしは真理について証しをするために生まれ」たと語りました。また、たびたびイエスは真理について言及することもありました。それほどにイエスにとって、人々に真理を宣べ伝えるということが優先されることであったのです。
けれども、そのようにしてイエスの重要な考え方としての真理とは逆に、ここでしか使用されない「恵み」という言葉がここで真理と共に使われているのはなぜでしょうか。
恐らく、この恵みとは、イエスがどのようにわたしたちに関わってくださっているのかを実際に見た人たち、この福音書を読んだ人たち、イエスという人を知ることが出来るようになった人たち、イエスとつながる人にとっての恵みなのだろうと考えることができます。
イエスという方がこの世にやってきてくださり、そして真理としてわたしたちを神が愛してくださっていること、イエスが愛してくださっていること、そして、イエスが寄り添ってくれるのはなんらかの条件を達成したが故に与えられるものではなく、向こうの方から歩み寄ってくれる愛であるということではないでしょうか。
だからこそ、続くヨハネによる福音書の物語の中には恵みという言葉が現れないのです。なぜなら、福音書の中で描かれるイエスの物語こそが、わたしたちにとっての恵みの物語となるからです。そして、恵みの中において、わたしたちは真理とはなんであるかという問いへと導かれるのです。
2016年4月10日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 21章1~14節
「日常のような再会」
21章は再び弟子たちとイエスとの出会いが描かれています。以前のイエスとの出会いは劇的であり、救い主イエス・キリストとしての顕現される姿が描かれていました。それと比べると、21章においてのイエスと弟子たちの再会は、どこか久しく会う人の再会が描かれているように感じます。共観福音書において、ペトロたちはイエスによる招きにより、漁師を捨てて付き従ったという話がありますが、ヨハネによる福音書では特に言及はされていませんでした。けれども、前提としてペトロが漁師であるということはあったでしょう。ですから、この21章でペトロが漁に出かけるのも本来ならば何ら不思議ではありません。ただ、違和感があるのは、このヨハネによる福音書の最後の箇所においてペトロが漁に出かけているという出来事です。
ある意味でここで描かれている光景は漁師としての日常でしょう。漁師として、その日は不漁であった、というだけで終わっていたのかもしれません。
しかし、ここでイエスがさりげなくそっと登場します。その登場は多くの人が気付くような劇的なものではなく、イエスであるということも最初は分からないほどでした。けれども、イエスの言葉は確実なものとして現されました。弟子たちの日常の中においてイエスが顕現することによって、一つのことに気が付かされます。それは、弟子たちが行っていたものは、イエスに従う以前の、いうなれば元の日常への回帰でした。けれども、すでに弟子たちはイエスと出会い、様々な教えを聞き、それにより新たなものにされていたのです。であるとすれば、弟子たちが元の日常へと戻れることはありません。むしろ、神の恵みの中においてその恵みを受け継いでいく信仰の世界を生きることが新たな日常となっていくのです。
急いで岸に上がった弟子たちにイエスはこう語ります。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。そのようにして描かれる光景は、はたから見れば一見して普通の日常の光景でしょう。しかし、この光景も本来ならばあり得ない光景であるのです。ありえないからこそ、この光景に見えるものは、神の恵みであるとさえ言えるのです。そして、わたしたちもそのようにして宿されたものであるという思いを持ち歩みたいと願います。
2016年3月20日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 12章12~16節
「その人は来られた」
イエスがエルサレムに入城する時、多くの人々がイエスの到来を喜び、それを行為としてなつめやしの枝を持ち、迎えます。しかし、人々がイエスに求めていたものは、イスラエルの王でした。ローマという大国の属州であり、自らの国の再興を求める人々はイエスを政治的な王として据えるために、期待を込めた一言としてイエスをイスラエルの王として迎えます。
しかし、イエスはそのようにして迎えられる中で自らの意思において子ロバに乗られることを選択しました。他の福音書においては、イエスがエルサレムに入場する時の備えとして弟子たちに子ロバを用意させますが、ヨハネによる福音書はその記事を省略することによって、逆にイエスの姿勢を鮮明に描き出しました。
人々が求めた強い王とはすなわち、軍事的、政治的、社会的な強さが求められました。その思いに応えるならば、イエスはここで馬に乗ることで民衆たちの思いと自らの思いは同じであり、ユダヤの国の再興を宣言すると同義の振る舞いもあり得ました。しかし、イエスが選択したのは、そのような軍事的、政治的、社会的な強さを象徴するものではなく、子ロバという、農業を営むことのできる平穏の中で過ごせることを表すものでした。
弟子たちが後に思い出した言葉はゼカリア書の引用でした。そして、そこには恐れるなというメッセージが語られます。それでは、ここで語られる恐れるなという言葉はいったい何を恐れるなと語っているのでしょうか。それは、自らの信ずる救い主の姿とかけ離れた姿を前にしても、それについて恐れることなく、信じぬくことが求められているのではないでしょうか。
わたしたちは様々な時に恐れを抱きます。恐れは目の前にある物から目をそらしてしまいます。そして、目をそらすだけではなく、自らを守るために、それ自身から逃れようと立ち振る舞ってしまいます。
イエスが捕らえられたとき、弟子たちは恐れおののきました。そしてペトロは恐れのゆえにイエスを知らないと重ねて証言してしまいます。イエスは恐れることなく、平和をもたらすものとしてイスラエルに入城しました。同じように、神を信じぬき恐れから目をそらさない勇気が求められます
2016年3月13日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 12章20~36節
「イエスの時が来る」
弟子たちが何人かのギリシア人による訪問したいという願いを聞いた時、イエスは自らに課せられた時がやってきたということに気が付きます。一粒の麦は地に落ちて死なねばならぬとその思いを口にします。そして、それこそが栄光を受ける時なのだとも語ります。
しかしながら、イエスの語る栄光とは光り輝くだけのものではなく、一つの大きな影を落としつつの光であることを忘れてはなりません。それこそが十字架の死という出来事です。イエスの十字架による死の一側面には人の思いによって生き、神から背いてしまうという闇の側面があります。そして、その闇は誰しもにあり、人の目を塞いでしまう暗闇となり果ててしまいます。その意味では人の世というものは往々にして暗闇に閉ざされた世界でありますが、ヨハネによる福音書の一番初めに描かれたロゴス讃歌と呼ばれる一群を読むと、「光は暗闇の中で輝いている」と語られていることに気が付かされます。ヨハネによる福音書は一環として、イエスは私たちのもとに使わされている光なのだと証言していることに気が付かされます。そして、語られているイエスの栄光とは、ただ光り輝くものではなく、私たちを照らす光として暗闇の中で輝き続けてくださる光なのだとヨハネによる福音書は語ります。そして、私たちを照らす光としてのイエスを信じなさいとイエスは語ります。イエスを信じて歩むということは新たな命として歩み始めることです。その歩み方は仕える者として歩みなさいという言葉で語られます。仕える者と聞くとき、私たちはイエスが最後の晩餐で語った互いに愛し合いなさいという言葉を思い出します。確かに、互いに愛することはイエスの愛の実践であります。仕えると表現されるなかには、キリストの僕として歩む、イエスの生き方に倣って生きることが求められているのであれば、愛をもって仕える者として歩むことが望まれていることに気が付くことができます。そして、そうするならば、イエスが最後の晩餐において語られた言葉が、弟子たちに秘儀として伝えられたものではなく、再三にわたって語り続けられていたイエスの生き方、考え方の大きなまとめであったことに気が付かされます。誰かにではなく、全ての人にイエスの言葉は延べ伝えられているのです。
2016年2月21日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 9章13~41節
「開かれた目に見える」
目の見えない人との出会いは偶然の出来事でありました。通りすがりに出会った一人の盲人に対して弟子たちはイエスに尋ねます。弟子たちの「誰が罪を犯したからですか」という問いはある意味では無自覚な、それでいてイエスが相手取っていた律法学者たちに通じる、一つの社会通念、言い換えれば彼らの一般常識の中から生まれた発想でした。
弟子たちが何を思ってこの発言をしたのかはわかりかねますが、一つの想像としては、そのようにすることで自分たちは救われる側であり、目の見えないということを罪として彼を罪人の側に押し込めることによって自分たちの立場を確認するとともにその立場に優越感を持ちたかったということが考えられます。しかし、イエスの答えは彼らの想像していたものとは異なり、「神の業がこの人に現れるためである」というものでした。そして、イエスは目の見えない人を癒されました。
そして肝心なことに、ここから始まる一つの騒動の中において、弟子たちがきっかけとなったはずなのに、弟子たちがそれを見てどう思ったかは一切描かれていません。ヨハネによる福音書は主の愛された弟子が書いたものだという体裁をとる書物です。そしてそれなのに弟子たちの結末が描かれれていないのは、読み手もまたイエスの弟子であるという前提があり、弟子であるあなたがどう受け取るのかというものなのではないかと考えられます。
わたしたちも時に一般常識というものの考え方を優先してしまう時があります。そして、その考え方が時に善と悪を簡単に切り分けて、自分たちを善と捉えて一方的なものとしてふるまってしまう時があります。
しかし、イエスはそれを立場を二分にしてどちらかを切り捨てるというものではなく、まず神がすべての人を愛されているのだというところからこの問いに答え、私たちを再出発させてくださったのです。そして、その再出発は弟子たちだけではなく、目の見えない人にとっても再出発でした。この人はファリサイ派の人々の前に立たされました。普通なら臆してしまうところで確信をもって証をしました。そのように確信を持てるのも、イエスという人と出会う事から始まったのではないでしょうか。
2016年2月28日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 6章60~71節
「去ってしまう人へ」
イエスに付き従った人たちを動揺させたのがイエスの語る、命のパンであるわたしの肉を食べなさいという言葉でした。これは福音書記者が福音書を執筆したときにはすでに聖餐式があるということを意味していますが、同時にイエスの語る言葉を己自身が実現できるように行いを改めることも求められています。しかしながら、この肉という表現は人肉食と捉えた人々はイエスにはもう従いきれないとさって言ってしまうのです。
わたしたちも聖餐式においてパンをイエスの体と見立て、ぶどう酒ないしブドウ液をイエスの血として与っています。それを式文の祈祷文では「み子イエス・キリストのあがないの恵みを、わたしたちのうちに確かめ、わたしたちの罪をゆるし、汚れをきよめ、とこしえの命を与え、み国の世嗣としての望みを固くしてくださいました」と記しています。
食べ物をわたしたちは食べることによってそれを血肉としてその日、また次の日と歩むことができます。イエスが望んだのはまさに信仰によって、霊的に私たちが満たされ、その日、また次の日と歩むことだったのではないでしょうか。
ここでイエスのもとから去って行ってしまう人たちはヨハネによる福音書が問題としている、知るという言葉が再び浮上してきます。イエスの言葉の意味を知ることができるか、理解しようとするか、そしてそれを実現できるようにふるまえるのか。従おうとした人々はイエスの言葉の意味を理解することを放棄し、ただ去って行ってしまうだけでした。
そうではなく、イエスが理解してほしかったのは、自分というものは人々の中に希望の象徴として存在するものであり、神ご自身が一人一人を愛されているのだということの自覚だったのです。
愛されているという自覚は人に強い思いを抱かせることのできる原動力の源でもあります。誰一人として見捨てられた存在ではなく、すべての存在が神によって見つめられているのだと。そしてそれを再確認するものとして聖餐式が制定されているのではないでしょうか。
2016年2月7日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 12章37~50節
「信じるという方向性」
イエスの言葉をもってイエスを信じるようになった人はその時々において異なります。特にエルサレムにおいてその反応は顕著であり、また、それを信じても公の立場に現さない人もいたと聖書は証言します。
ここには多くの人々の思惑が渦巻いているのをうかがうことができます。なぜなら、まさにこの後に最後の晩餐から十字架へと続く物語が描き出されるからです。そういう緊迫した雰囲気の中、イエスは叫んだと聖書は伝えます。叫ぶとはいうことは、会話をするというような穏やかなものではなく、多くの人にその言葉を伝えようとする手段です。
そこには緊急的に伝えなければならないものが語られています。それが、イエスを通して神を信じなさいということでした。イエスはここに来るまでも何度にもわたって神を信じるということに集中していました。それをここで特に集中するのはこの個所以降は直弟子たちに向けて語られた最後の晩餐内における告別説教、ピラトの尋問、十字架につけられるという多くの人々に向けて言葉を発する最後の場面だったからです。
最後だからこそ、イエスの言葉を信じる人、イエスの言葉を信じない人、信じてもそれを公の態度に出せない人、イエスを知らない人、すべての人に対して言葉を発したのです。
何を信じるべきか、イエスはそれをわたしを信じることが神を信じることに通じるのだとはっきりと明示します。そして、それはここまでのイエスの言葉、行いを振り返り改めて思い巡らす時だとイエスは語るのです。多くの場でイエスは神を証しし、またその証としての徴を人々の前で行っていました。知るということにはこれ以上のないほどの証をこれまで展開した中で、わたしを信じるのか信じないのかという問いかけをもってここで大きな区切りが持たれています。
このイエスの叫びをもって、ヨハネによる福音書をはじめから読み直していくとイエスの求めているものが本当に私たちと神を出会わせたい、神への正しい向きはこちらなのだと強く訴えている姿を見ることができます。イエスはどこまで行っても私たちに神と向かい合うことを求めているのです。
2016年1月31日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 2章13~25節
「神殿の中、心のなか」
イエスの宮清めと呼ばれる場面は共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカにもイエスがエルサレムに登った後に行われた事として納められていますが、ヨハネによる福音書における宮清めはイエスが活動を始めた最初期に位置付けられています。
この配置換えには様々なことが言われてはいますが、おそらくはこの語り部となっているヨハネによる福音書において、神という存在はどこに存在しているかということが語られている箇所なのではないかと思わされます。
旧約聖書内には直接的に神が介入し、人に対して言葉を投げかける事が多くの場面で散見されます。しかし、新約聖書においては神自らの介入はなく、イエスの言葉が語られます。しかしながら、ヨハネによる福音書はイエスという神のひとり子としてこの世に使わされているという大前提があり、そのために神が今どこに存在しているのかを説明する必要性があったのです。
神がどこにいるのか、イエスの宮清めにおいてイエスは神殿そのものを指して父の家と呼称していますが、ユダヤの人たちに問い詰められたとき、神殿という場所からイエスの体へと移行しています。
イエスがこの言葉を語った時から、神は神殿という人の手によって作られた場所ではなく、神自身が創造された人の手では作りようのないところに存在することが語られます。
そして、だからこそイエスの行い一つ一つが神の行いであり、神自身の語る言葉なのであると著者は証言します。また、このことから一つのことが考えることができます。それは、人の心の中に神を住まわせることもできうるのだと。もしもイエスのみの心の中に神が住まうことができないのであれば、イエスが去ってしまった後、神と人とが出会うということは隔絶されたものとなってしまいます。イエスはのちに最後の晩餐の時に弟子たちに神の愛、イエスの愛を相互に持ち合うようにと弟子たちに教えられました。それこそが、神を自らの心の中に住まわせることのできるものなのだと教えられたのです。私たちの心の中に神を住まわせること、それこそを神もイエスも私たちに臨まれていることなのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書 1章35~51節
「彼らは何を知ったのか」
イエスに従う弟子たちとの出会いは、共観福音書とは異なる形での出会いから始まりました。洗礼者ヨハネに従うペテロの兄弟アンデレともう一人の弟子、ペテロ、フィリポ、そしてナタナエルとの出会いです。
この五人の弟子たちの中で直接イエスに従うようにと声をかけられたのはフィリポのみでした。アンデレともう一人の弟子はイエスに声を掛けられた時に知りたかったのは、どこに泊まっておられるのかということでしたし、ナタナエルに対しては、「まことのイスラエル人だ」という紹介の言葉でした。ある意味でここに登場する弟子たちがイエスに付き従うようになる動機としてはちぐはぐな印象を受けます。
なぜなら、この箇所において、ヨハネの「見よ、神の子羊だ」という言葉から始まり、最後の「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」という間において、イエス自身が自発的に譬えも教えも何も語らず、それでも弟子たちがイエスを無条件的に認めているという構図だから、この箇所はわかりづらいものとして、唐突な印象を受けるものとして描かれています。物事の順序として往々にして起承転結をまとめることが、人にものを伝えるものとして必要なものですが、ここでは読者であるわたしたちには語られていない物語が存在しているのです。そして、その語られていない物語の中にこそ、弟子たちがイエスを信じ、付き従うに足りえる言葉があったはずです。けれども、そのようなことは語られず、弟子たちとイエスとの言葉のやり取りは、様々な隠喩がこの中には込められているのだと解説する学者もいますが、そこまでなかに突っ込まない書かれ方をしています。そのため、この箇所だけでどう考えるかは別として、ヨハネによる福音書全体で考えると、この著者の語りたいことが、わたしたちがイエスと何度でも出会える、出会い直すことが大切なのだと言っているような気がしてきます。これは、マルコによる福音書と同じ目的の描き方です。マルコによる福音書も何度も最後に御使いを通して読者にガリラヤにおられるイエスのもとに向かえと語られます。同じように、何度もイエスと出会いなさいとヨハネによる福音書はわたしたちに求めているのです。
ヨハネによる福音書 1章29~34節
「神の子羊は来た」
洗礼者ヨハネのもとにイエスがやってきたとき、洗礼者ヨハネはすぐさまにイエスこそが救い主であると証しを始めました。洗礼者ヨハネのこれまでの働きは、イエスの到来によって成就しました。今までの洗礼者ヨハネの働きは、全てイエスの到来に向けての備えの時であったのです。
洗礼者ヨハネは人々にどちらを向けばいいのかを指し示しました。これは、人々が道を違えてしまっている時に、はっきりと、今歩んでいる道は誤った道であるという声でした。そして、その声は多くの人々の心を揺さぶり、一時期は彼こそが救い主ではないかと言われたほどです。
そのように見られていた洗礼者ヨハネが、この方こそが待望されていた救い主キリストなのだと、イエスを証しします。この時、イエスは洗礼者ヨハネの証言に対して否定も肯定もしませんでした。ただただ洗礼者ヨハネの証言が語られるのです。
洗礼者ヨハネはイエスのことを神の子羊だと呼びました。この呼び方は、新約聖書中にはすぐ後の36節にのみ現れる言葉です。類似した表現はあるものの、洗礼者ヨハネによる一つの暗示が語られるのです。
ユダヤ教において子羊は過越しの儀式に用いられる重要な動物でした。過越しも元をたどると、出エジプト記においてエジプトにおいて苦しめられるユダヤの民を神自らが助け出した出来事から由来しています。そして、その過越しの時、ユダヤの民は自らがユダヤ人であるという証のために子羊を屠り、その血を自らの家の扉に塗りました。子羊は犠牲の供え物であったのです。
洗礼者ヨハネは「世の罪を取り除く神の子羊」だとイエスを証しします。そこには、この方こそが、わたしたちの罪を取り除いてくださる犠牲となられる方なのだという、イエスの十字架を暗示があります。
そして、そのようにして神自らがこの世にイエスという方を遣わしてくださり、救いの業を成就させてくださるという一種の興奮をもって洗礼者ヨハネは、この方が神の子羊であり、わたしたちの待望していた方、キリストなのだとその場にいるすべての人に宣言するのです。
ガラテヤの信徒への手紙 3章26~4章7節
「受け継ぐものとして」
パウロはガラテヤ書の中でイエスを信じるということが神の恵みを相続することに繋がるものであることを立証しようとします。そもそも、ガラテヤの教会はパウロが伝道をし設立させた教会でしたが、それを説明するのが求められたのは、ガラテヤの教会においてパウロの語ったイエス・キリストを信じるということよりも、まず、律法を順守しなければならないという教えが持ち込まれたからでした。そして、この出来事により、ガラテヤの教会には信仰か律法かという分断、パウロそのものの否定などが始まってしまいました。そして、それらを一つずつ論証する必要性に迫られたのです。
パウロが特に力を入れているのが律法を守ることと信仰を守ることとの違いでした。パウロは律法と信仰について論拠するとき、アブラハムを引き合いに出し論述を始めます。なぜなら、アブラハムという人は律法が制定される前に神から招きだされた人であったからでした。
律法そのものが制定されたのはモーセの時代において、守らなければならない掟として制定されました。パウロは律法全てを守り切れる人はおらず、それゆえに律法が明らかにしているものは罪そのものであり、すべての人が罪の支配下にいるようにされたと考えました。
しかし、律法が制定される前から、神から義と認められる人がいたことをパウロは説きます。それがアブラハムでした。アブラハムは神からの招きの言葉を聞き、それを信じたということそのものが律法そのものを救いにおいては不可欠ではないものであるとパウロは語ります。
アブラハムからその子孫であるイサク、ヤコブの時代は神を信じ抜くことを理解する道のりでした。その道は容易な道のりではありませんでした。しかし、そこには律法という強制力はありませんでした。信じるということが何よりも必要であり、神を信仰するということのみが救いの道であるということをパウロは語ります。そして、それを可能とするのは、アブラハムから信仰を受け継ぐイエス・キリストを信じるからこそわたしたちも同じように受け継ぐものとして救いに道に与ることができるのです。その救いの道こそがパウロの語る福音なのです。
2015年12月20日(日)説教要旨
ルカによる福音書 1章57~66節
ゼカリヤ書 2章10~13節
「道を整える人」
整えるということは様々な時に用いられます。身の回りの物を整える、息を整える、用意を整える、個人を対象にもすれば、いわゆる行政などの道を整える、区画を整えるなどという時にも使われます。
この整えるということを考えると、それは整えようとする側の行為です。例えば、息を整えるのであれば、それは誰かが肩代わりできるものではありません。行政などは往々にして区画整理という名のもとに整えますが、あれも行政側からすれば整えはしますが、わたしたちの側からすると、整えられたという感情が生まれます。
整えるということ、あるいは、善悪に関係なく物事に働きかけるという行いは自らの意思があって初めて動き出すものです。
旧約において、散見されるのは人々に対する不条理な行いに対しては、神自らが介入し、行いを働いたものに対しての報復があるという思想がありました。これはで人の手による復讐は新たな人の手による復讐しか生まないという反省でもあり、また、わたしたちのために関わり続けてくださるという神に対する信頼あります。
しかし、その信頼、神がわたしたちを愛してくださるが故に関わり続けてくださっているという信頼は歴史の中で歪まり、神との正しい関係は律法とそれに対して考察し、自らで考え出した規律を絶対に遵守することであるとなってしまいました。
ヨハネがイエスに先立ち、この世に生まれ、人々に罪の悔い改めを迫ったのは、今一度自分たちが神に信頼しきることを自覚させるためのものです。
そして、それにより多くの人が神に信頼することを改めて思い直し、自らの歩みを悔いたために水による洗礼を受けたのです。
この時、きっかけはヨハネによる言葉でした。ですが、その言葉を通して自ら洗礼を受ける、罪の悔い改めを求めたのは、その言葉を聞いた側でした。
ヨハネは神へ向かう道を人々に強制して整えようとする人ではなく、人々の心を立ち上がらせ、一人一人の心が整えられるよう備えさせる人なのです。