牧師室より
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2016年9月4日(日)説教要旨
ヨハネによる福音書 10章1~6節 「聞き分けることができる」
ヨハネによる福音書において度々行き当たる問題として、文脈を無視して話が展開されると言うことがあります。特に、後代の編集者による加筆であるのか、著者自身の手癖によるものであるのかということが問題とされてきました。今回読まれた聖書箇所は前後の脈絡を無視して突然書き出された言葉として聖書学者の中でも論争が続いている箇所でもあります。
中には後代の編集者によって文章が散乱した結果、この箇所がここに納められたという仮説を打ち出す聖書学者もおり、確かにその可能性をぬぐいきることはできません。また、これが元々筆者がものを考えている時に、ふとそれに関わる問題について言及した可能性もあります。
特に後者は、古代の執筆状況を考えればなくはない可能性であります。当時は現代のように文章を容易に書き加えたり、削除したりということは困難で、一昔前の小説家のように原稿用紙を丸めては新しく書き始めるというようなこともできない時代でした。
そんな中で、書き始めたものは、文脈を無視した形として発露してしまいます。これによく似たものとして、キルケゴールの「死に至る病」という著書が思い浮かびます。これも、自分で書いた文章の中から、自分の気にかかったことを段落をつけずにそのまま論述するという理解するのがなかなかに難しい文章書きでした。
それでは、ヨハネによる福音書の筆者はここで何に思いを持って描いたのかということにつながります。前段落、及び、19節以下はユダヤ人との論争について描かれていましたから、おそらくは、著者本人が生きていた時代、キリスト者たちが多く生まれ、それぞれが異なる人物からイエスという人から伝えられた福音をそれぞれの仕方で信仰し始めたことがここで暗に語られています。
特に著者が危惧していたのは、イエスという方が伝えた福音を誤った形で自分勝手にねじ曲げてそれによって伝道する存在でした。それに対して、著者は自分たちはそのようなただ中に置かれる中で、イエスの語った福音を聞き分けねばならないということではないでしょうか。